美術鑑賞を嗜む生き方 阿加井秀樹

はじめまして、阿加井秀樹と申します。趣味は美術鑑賞です。いただいた美術品が私にとって声も出ないほどの感動を与えました。その感動を皆さんにも伝えたいそんな気持ちでこのブログを書き記してまいります。

「着衣のマハ」について

 

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。


今回はこのブログでも何回かご紹介させていただいている画家のフランシスコ・デ・ゴヤが手掛けた「着衣のマハ」という作品についてご紹介していきます。

 

この作品の特徴は主人公ともなっているマハの表情かと思います。どこか哀愁も感じられる素朴な瞳からは作品に引き込まれる魅力を感じさせます。

 

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また、当時の時代背景も大きく描かれており 当時スペイン国内の貴婦人が愛用し流行していた異国情緒に溢れたトルコ風の衣服。

 

本作と「裸のマハ」は画家の重要なパトロンのひとりで、権力を手にしてから皇太子や民衆を始め様々な方面から非難を浴びせられた宰相ゴドイが所有しており、その為、一般的にはこの2作品は宰相ゴドイが制作を依頼したものだとする説が採用されています。

 

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またゴヤ特有のやや大ぶりな筆触による繊細ながら表情豊かな表現も特徴的ですし、色彩においても黒色、金色、緑色、紅色、茶色、白色などを用いた独特の配色によってトルコ風の衣服の雰囲気や質感を見事に表現しています。

 

私阿加井秀樹としてもこの作品は好きな作品の一つでもあります。

モデルについては古くからアルバ公爵夫人マリア・デル・ピラール・カイェタナとする説が唱えられていますが、フランシスコ・デ・ゴヤが残したアルバ公爵夫人の素描や肖像画の顔と比較し、あまりに異なる点があるため否定的な意見を述べる研究者も少なくなく、現在では宰相ゴドイの愛人ペピータとする説なども有力視されています。


多くの絵画で描かれている「人」のモデルは誰なのかわからないケースが多々あります。モデルについて考えていくことも絵画を楽しむポイントなのかもしれませんね。

 

 

それではまた。

阿加井秀樹

 

ポール・ゴーギャン作品「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」

 

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。

 

今回はポール・ゴーギャンの絵画「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」をご紹介したいと思います。

 

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ゴーギャンは、1888年末にゴッホとの共同生活を終え、その後タヒチに渡りましたが、貧困や病気に悩まされて結局1893年フランスに帰国しました。

 

しかしパリで絵が売れずに妻子にも見放されてしまい、愛人にも裏切られ居場所を失ったゴーギャン。1895年に再度タヒチ渡航

 

異国の地で貧困にあえぐ中、最愛の娘の死の知らせを受けたときに、完成後の自殺を念頭に人間の生と死を描いた晩年の遺書のような意味合いで描いたのがこの作品です。

 

絵画は、右側から左側にかけて大きく分けて3つの場面構成となっています。右側の赤子と家族は「人生の始まり」を表し、中央の果実を取る人物は「成年期」を、左側の年老いた老婆は「人間の死」を表現したと言われています。

 

左側に配された神像については諸説ありますが、いずれにせよ、人間を超越する存在である「超越者」として描かれているということです。

 

また、老婆の足下に描かれた白い鳥について、ゴーギャンは「奇妙な白い鳥が、言葉がいかに無力なものであるかということを物語っている」と書き残しています。

 

それではまた。

阿加井秀樹

 

「自画像」のいろいろ

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。

 

今回は美術品でも多く存在する「自画像」についてご紹介したいと思います。

自画像は、作者自らを対象とした肖像で、普通は絵画の形式であることが多いのですが、中には自らを刻んだ彫刻や自らを写した写真など他の手法が使われることもあります。

 

古代の芸術作品では、芸術家自身の姿は古代エジプト壁画や古代ギリシアの壷の絵柄などに現れています。

 

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そのように、肖像画は古くから存在しましたが、神仏や社会に仕える存在だった画家が自らの姿を描くようになったのはそう古いことではないようです。

 

例えば、古代ギリシアの彫刻家ペイディアス。彼は、アテナ像の持つ盾の模様に自身の姿を紛れ込ませて、不敬罪に問われたと言われています。

 

西洋ではルネサンス期以降、画家や彫刻家は宗教画の群集の一部に自らを紛れ込ませたり、人物画のモデルとして自分自身を使うなどおずおずと自分自身を描くようになりましたが、それ以後の16世紀から17世紀にかけては、自画像は公然となり美術の重要なジャンルとなっていきました。

 

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自らの姿を宗教画にまぎれさせていたころは、自画像を隅に描く目的は、画家自らの謙虚さを表すことだったようですが、その後は自らの姿をさらすことへの恥じらい、あるいは画家の虚栄心や自己愛や地位誇示の反映となっていきました。

 

さらに自画像が盛んになると、自分の客観視を通じた自己探求や自分の理想化、自己の内面や存在の表現などが目的となり、自画像の意味合いは時代時代で変わってきたそうです。

 

それではまた。

阿加井秀樹

 

 

 

「土着の神タラーブへの供物」について

 

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。

 

何年か前に東京都美術館で開催された「大英博物館展-100のモノが語る世界の歴史」に足を運びました。ロンドンの観光名所、世界最大級の博物館でもある大英博物館は、世界中のあらゆる地域と時代を網羅した700万点を越える膨大な量のコレクションがあります。

 

大英博物館に行ったことがある人ならわかると思うのですが、あまりにも広く見どころがあり過ぎて、とても一日では見て回れないほどのスゴさなのです。珠玉の100作品がセレクトされたのが大英博物館展でした。

 

私が見た中で今回紹介したいのが、イエメンで信仰されていた土着の神タラーブへの供物(アラビアの手形奉納品)です。

 

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イスラム教以前に、イエメンで信仰されていたのは土着の神タラーブ。この手はイエメンの街の護り神タラーブに捧げられた供物ということでした。

 

青銅で出来た右手には血管が浮き出て文字が刻まれ、爪がくぼみ、小指が不自然に曲がっていたのでリアルでした。

 

手の甲の文字には「守護神の加護にそって自分の右手を捧げる」と記されているそうです。

 

当時は今よりも物や言葉に込められた力が信じられていたと思うので、願いや祈りの込められたものだろうと想像できました。

 

 

それではまた。

阿加井秀樹

 

 

レオナルド・ダ・ヴィンチ代表作「最後の晩餐」

 

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。

 

今回はレオナルド・ダ・ヴィンチの代表作「最後の晩餐」についてご紹介していきたいと思います。

 

この作品は、キリスト教の聖書に登場するイエス・キリストの最後の晩餐を描いた作品です。「このなかに私を裏切る者がいる」と語り静かに運命を受け入れるキリスト。キリストとは対照的に、驚惜と動揺を隠せない十二使徒

 

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ある者は意気消沈し、ある者はわれを忘れて叫び、ある者は哀願するようにキリストを見つめる。ただひとり身を引いているのが裏切り者のユダ。

 

表情や身ぶりによるこまやかな心理が描写され、3人ずつに分けて構成された絶妙な人物配置とキリストを中心とした明快な一点透視図法による空間の深さなど、いずれをとっても、これ以前に他者が描いた「最後の晩餐」の図には見られない画期的な作品です。

 

レオナルドは1495年から制作に取りかかり、1498年に完成させています。ほとんどの作品が未完とも言われているレオナルドの絵画の中で、数少ない完成した作品の一つではありますが、最も損傷が激しい絵画としても知られています。

 

レオナルドは遅筆で有名ですが、そんな彼にしては珍しく速い3年というペースで仕上げられたことも特徴と言えるのではないでしょうか。

 

この作品があり有名になったイタリアのミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドメニコ会修道院は、ユネスコ世界遺産文化遺産)登録物件となりました。

 

この絵が描かれた食堂は19世紀にはナポレオン率いるフランス軍によって倉庫に使われ、第二次大戦中には爆撃を受けましたが、今もなお形をとどめています。

 

 

それではまた。

阿加井秀樹

 

 

「アウグストゥスの胸像」について

 

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。

 

今回はプリマポルタのアウグストゥスの胸像についてご紹介致します。

 

よく彫りの深い男性の顔を表すときに、「ギリシャ彫刻のような顔」と表現することがありますが、まさにその「ギリシャ彫刻のような整った顔立ち」がこの胸像です。

 

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アウグストゥスは若く力強くも思慮深い顔をしています。アウグストゥスは初代ローマ皇帝であり、大叔父は共和政ローマ末期の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルです。アウグストゥスは皇帝にふさわしく男前ですが、当時虚弱体質に悩んでいたと言われています。

 

体力の要る軍事関係は弟子に任せて、「疲れたら休む」というスタンスで無理をしない生活を送ったことで知られ、最終的には当時としては長生きで天寿を全うしたそうです。

 

アウグストゥスの胸像は、現在250体以上も残っているそうで、そのため各所で見ることができるのだそうです。

 

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これほど数多くの象が残っているには理由があり、アウグストゥスは自らの威厳を帝国内に衆知させるために各地に像を設置させたということです。

 

最後に少し雑学ですが、「アウグストゥス」という名には「尊厳あるもの」という意味があり、「8月(August)」の語源にもなっている言葉です。

 

それではまた。

阿加井秀樹

 

アメデオ・モディリアーニ作品「ポール・アレクサンドル博士」

 

みなさんこんにちは。阿加井秀樹です。

 

今回はアメデオ・モディリアーニ「ポール・アレクサンドル博士」について書いていきます。

 

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イタリアのリヴォルノに生まれたモディリアーニは、1906年1月に絵を描くためにパリに出ました。その翌年の11月に、本作のモデルとなっている人物である、医師で美術愛好家のポール・アレクサンドル博士と知り合っております。

 

ポール・アレクサンドル博士はモディリアーニの作品に関心をもった最初の人で、激励するために作品を買い続けた人としても知られております。ポール・アレクサンドル博士は、無名の芸術家を公衆、画商、収集家に紹介するチャンスのある公的機関にもよく通じている人物でした。

 

そのため、さまざまな面でモディリアーニを支援し、その芸術活動を支えていったとされております。この絵が描かれた頃に、モディリアーニは彫刻家コンスタンティンブランクーシと友情を結び、実は、以後の数年間は彫刻に没頭することになります。

 

しかし絵画を放棄したわけではなく、1914年以降の細長く平面的にデフォルメされた、いわゆる「モディリアーニ様式」に繋がってゆくこととなるのです。

 

本作は若いモディリアーニの瑞々しい感覚が漂う初期の秀作といっても過言ではないでしょう。

 

それではまた。

阿加井秀樹